毛皮を求めてタイガ地帯を東進したロシア人は、レナ川の流域を越え17世紀半ばにはベーリング海峡に到達した。基本的に未知の土地への探検ルートとして河川に重点を置いてきた彼らにとって、中部シベリアから東方へ抜ける最短ルートとしてのアムール川(中国名:黒竜江)は非常に重要なものであったが、その流域はすでに清朝が勢力下に置いており、ここにアムール川をめぐって両者が激突することになった。当時の君主は、ロシアが積極的な西欧近代化政策を推進したピョートル1世であり、清朝が第4代の英主康煕帝の時代であった。
清朝との衝突以外にも17世紀半ばになると、ロシアはアジア各地で南下を始め遊牧地域との抗争が頻発するようになる。それは、17世紀のシベリアが「毛皮と狩猟の地」(毛皮商人が中心)から「農業の地」(開拓農民が中心)へと変貌しつつあったからである。他の地域では大規模な衝突には至らなかったが、清朝はこの時期にロシアが出会った最強のアジア国家であり、しかもロシアが注目したアムール流域のすぐ南こそ清朝の建国の地である満州であったため。事は重大となったのである。