アムール川流域のアルバジンに要塞を築いたロシアに対し、清朝は本格的な反撃を開始し、その結果1689年に両国間にネルチンスク条約が締結され、スタノヴォイ山脈(中国名:外興安嶺)からアムール川の支流であるアルグン川に沿いモンゴル高原に至るラインが国境として画定した。この条約は清朝が初めてヨーロッパ諸国と結んだ対等条約である。
 ネルチンスクでの外交交渉に際し、1500人程度の守備兵しか有しなかったロシアに対し、清朝は数千人の軍隊と数百隻の軍船を派遣してネルチンスクを包囲し、ロシアはこの清朝の威嚇に屈してアムール川流域を放棄した。北京では盛大な祝賀行事がおこなわれたそうであり、つまりこの条約は、強力な清朝に対しロシアが後退を余儀なくされたという力関係で位置づけられるのである。