19世紀半ばになると、ロシアは東シベリア総督となったムラヴィヨフによって、従来とは異なり対清朝積極策に転じた。彼は清朝がアロー号戦争(第2次アヘン戦争)で苦しんでいるのに乗じて、1858年アイグン条約を締結するのに成功し、アムール川以北をロシア領としさらにウスリー江以東の沿海州を両国の共同管理地として、国境線を有利に改定した。
ムラヴィヨフの積極策の背景には、1840年のアヘン戦争に象徴されるように、西欧諸国の極東地域への進出が本格化してきたことがあげられる。アヘン戦争の結果、中国南部での貿易が活発化し、従来キャフタでの交易でロシアが得ていた利益が侵害されるだけでなく、ピョートル以来積極的に開発してきたロシアの極東での勢力範囲が脅かされるという危機感があったと考えられる。実際にアイグン条約に先立つ1853年のクリミヤ戦争の際に、英仏艦隊はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクなどに来襲して、ロシアと交戦している。