アロー号戦争はアイグン条約の直後に締結された天津条約では収拾がつかず、首都北京に英仏軍の侵入を許した清朝は、交渉の仲介役をロシアに依頼し、その代償にロシアは1860年の北京条約ウスリー江以東の沿海州の領有を確定した。ムラヴィヨフはその南端に要塞都市ウラジヴォストーク(“東方(ヴォストーク)を征服する”の意)を建設し、流氷限界を南に越えたこの都市は不凍港(冬季にも氷に閉ざされることのない港)として、ロシアの極東経営の拠点として以後の歴史の中で重要な戦略拠点となる。
 ムラヴィヨフは北京条約締結の前年には、極東沿海地方の周航を行い、この途中二度にわたり日本に来航してサハリン(樺太)についての境界交渉を行っている。この時にはサハリン(樺太)は日本領として確認され、その後明治政府の時代になって、1875年(明治8年)に千島樺太交換条約が締結されるに至る。