大航海時代前後のアフリカ

 アジアの国々が栄え、商業が活発化していたころ、ヨーロッパの国々も積極的に海外に進出していった。その中心はイタリア商人とポルトガル・スペイン王家である。
 ヨーロッパでは、肉食が増えていたが、肉の保存と味付けのために香辛料が欠かせなかった。この香辛料はヨーロッパでは産出せず、同じ重さの金と交換されるほど貴重であった。その香辛料をはじめとするアジアの商品は、地中海の東半分を占めたオスマン帝国経由でおこなわれた。地中海商業はヴェネツィア・ジェノヴァが中心であった。
 ルネサンスのイタリアでは天文学や地理学の知識が増し、帆船や羅針盤が発達し遠洋航海が可能になった。また、イベリア半島ではレコンキスタが進み、ムスリム勢力を駆逐しつつあった。そういった状況の中、領土の拡張とキリスト教の布教に熱心であった両国は、香辛料を直接手に入れる目的とともにアフリカ奥地にいると信じられたキリスト教徒との提携と、「黄金の国」を求めて海外進出を進めていた。
 14世紀からポルトガルはアフリカ北西部の海岸地帯を探検していたが、15世紀にはエンリケ航海王子が王室の事業として積極的に探検に乗り出した。そして、アゾレス諸島などに植民し、アフリカを南下していった。1488年にはバルトロメウ=ディアスが喜望峰に達し、1498年にはヴァスコ=ダ=ガマが喜望峰をまわってインド洋をわたりインドのカリカットに到達し、香辛料などを持ち帰った。
 このようにしてヨーロッパとインドが直接結びついたのである。しかし、この時代はヨーロッパ諸国の交易拠点としてアフリカの港湾都市が発達しただけである。
 また中世以来、ムスリム商人がアフリカ東海岸で奴隷貿易をおこなっていたが、それは彼らのインド洋貿易の一環にすぎなかった。
  ところが、ポルトガルによる西アフリカ探検後、西欧諸国による大西洋ルートの黒人奴隷貿易がはじまった。それは新大陸のインディオが伝染病と過酷な労働のため激減したので、アフリカの黒人を労働力として送り込んだのである。この奴隷貿易はヨーロッパから武器・雑貨などをアフリカに送り、それと交換して得た奴隷をアメリカ大陸・西インド諸島に送り、そこから砂糖・綿花・コーヒー・タバコをヨーロッパに持ち帰るという三角貿易の一環としておこなわれたが、アフリカ西海岸地方が受けた被害は大きかった。