1368年に朱元璋(洪武帝)が南京で帝位についてはじまった明(〜1644)では、永楽帝時代(位1402〜24)にモンゴル高原への親征・ヴェトナム支配、さらに鄭和による南海遠征など国威が最高潮に達した。しかし、永楽帝の死後は、宦官と官僚の政権争いや財政難、それを是正しようとした張居正の改革も失敗し、官僚は東林派と非東林派にわかれて党争に明け暮れた。さらには「北虜南倭」とよばれるアルタン=ハンの率いる韃靼や東南海岸での倭寇の活動が明を苦しめた。また、豊臣秀吉の朝鮮侵略(壬辰・丁酉の倭乱)に対する援軍派遣など膨大な軍事費を賄うために重税を課して民衆を苦しめ社会不安が高まった。
  西アジアではビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国がスレイマン1世時代(位1520〜66)に最盛期を迎え、ヨーロッパ世界に対し優位を保っていた。また、イランには1501年にシーア派を国教とするサファヴィー朝(〜1736)が出現し、6世紀末にはのちに「世界の半分」とよばれたイスファハーンに遷都し、さらにポルトガル勢力をホルムズ島から駆逐するなど強勢であった。
 インドでは、ティムールの子孫と称するバーブルが、デリー=スルタン朝の最後のロディー朝を倒し、ムガル帝国を建国した(1526)。バーブルの孫の第3代アクバル(位1556〜1605)は、領土拡大と首都アグラの建設をおこなった。また、ヒンドゥー教徒のラージプート族と和解するとともに、イスラーム教徒とヒンドゥー教徒の融和をはかるためジズヤ(人頭税)を廃止し、地租を平等に徴収するため土地の測量を実施するなど帝国の全盛期を現出した。
 このように西アジア・インドではイスラーム国家が全盛を極めている一方で、東アジアでは中国が混乱期を迎えていたのである。中国東北地方で農牧・狩猟生活を営む女真族は、毛皮や人参の交易で利益を得ていたが、16世紀末、明の支配から自立し、建州女真のヌルハチのもとで他の女真諸部族を従え、1616年建国し国号を「アイシン(満州語で金の意)」とした(後金)。