15歳の時から、学徒動員で各務原の飛行機工場で働いてみえました。各務原空襲の際は(当時16歳)、一番東側の工場で飛行機の整備をしており、1トンの爆弾が落とされる中、必死に逃げたそうです。

 自宅は岐阜市花沢町(当時)にあり、岐阜空襲の際は、西から戦火が迫りくる中、避難されました。