美濃の紙は、正倉院に残る大宝2年(702)の御野国(みののくに)戸籍断簡(こせきだんかん)が現存最古のものであり、その製紙は国府(こくふ)の置かれた揖斐川流域で始まったと言われている。御野の紙の品質は良いと言われ、当時からすでに美濃にはすぐれた製紙技術が存在していたと考えられる。後に中濃地区が中核となり、美濃市牧谷地区の紙は平安時代に羽場蔵人秀治(はねばくろうどひではる)や太田縫殿助信綱(おおたのぶつな)らが始めたと言われている。この時期紙の需要を急激に増加させたのは、仏教であった。経文(きょうもん)や経典(きょうてん)の出現により紙の消費量は膨大となり、紙の生産地も増加していった。




この時期、紙の普及に伴い、全国各地からさまざまな紙が産せられたが、中でも美濃産の紙は都での評判が極めて高かった。京都の上層階層者たちも縁故を頼って美濃紙を求めたと言う。中世の美濃国は、守護土岐氏のもとで治安が保たれ富裕であったため、特に中濃地区の板取川・武儀川(むぎがわ)流域には多くの紙郷(かみごう)が育った。美濃市大矢田(おやだ)には、毎月6回の定期の紙市が開かれ、その紙は近江の商人によって京都へと運ばれた。中世では美濃は全国的にも主要な紙産地となり、数多くの美濃紙は、書写・草子用紙(そうしようし)などに用いられた。




美濃国武儀郡の中核紙郷は、障子紙・書院紙(しょいんがみ)・小菊紙(こぎくし)など、多様の紙を幕府御用紙(ごようがみ)として納めた。当時の御紙漉屋(おんかみすきや)は、諸役御免(しょやくごめん)で、幕府の手厚い保護を受けた。美濃第一の豪商と言われた大矢田の小森彦三郎や、尾張藩の藩札を漉(す)くなどして活躍した美濃市長瀬の武井助右衛門(たけいすけえもん)らが有力な紙問屋であった。


 


明治維新以後、国内の紙需要は増大した。紙漉きを副業から正業に転ずる人も多く、紙漉き人口も増加したため、紙問屋は、利益を増やすため、互いに競争を始めることになる。海外市場への進出もはかられ、美濃でいち早く紙の海外貿易に目を向けたのは武井助右衛門らであった。彼らは、初めて美濃紙を海外に紹介し、以来、典具帖(てんぐじょう)、薄美濃(うすみの)などの輸出は毎年増加した。また、上有知(こうずち)は、紙と原料の集散地(しゅうさんち)として大いに繁栄し、全国に販路(はんろ)を広げ、多くの紙商人と盛んに交流したと言われている。また戦争が始まると、日用品のほか、爆薬包装紙・航空機用パッキングなどの軍用品としても、紙は極めて多くの方面で使用されたが、美濃の和紙もこれらを支えることとなった。