●東氏の歴史●

 古今伝授の祖といわれる常縁の一族東氏は、下総の豪族千葉氏の一族です。石橋山の合戦で破れた頼朝を助け東国御家人の重鎮となった千葉常胤の六男、胤頼に始まります。胤頼は下総国東荘(現千葉県香取郡東庄町一帯)を領し、東氏を称しました。胤頼の子重胤は藤原定家に歌学を学び、将軍実朝の側近となります。実朝の歌会には常に参加し、和歌の家柄として東家の基礎を作りました。3代目胤行は、承久の乱(1221)の戦功により美濃国山田荘(現在の大和町一帯)を加領され、根拠地を下総から美濃へ移すことになります。またこの胤行は、藤原為家(定家の子)の娘を妻とし、胤行以降8代氏数までは全員勅撰歌人として名を連ね、72首の歌が勅撰和歌集(天皇の勅命または院宣を奉じて編纂した歌集、総称して二十一代集)に入選しています。

 8代目氏数の時、応仁の乱が興り全国に波及し美濃国斎藤妙椿が篠脇城を攻め落とします。この時氏数の弟常縁は、和歌10首を贈って妙椿から領地を奪い返したと伝えられます。常縁はこれ以後9代目城主となります。

 文明3年(1471)連歌師宗祇は、常縁を師に選び古今伝授を受けます。現在の郡上八幡岸剣の泉の近くに庵を構え、篠脇城まで通って古今集の教えを受けました。常縁は宗祇を泉の辺りまで送り、餞の歌を贈りました。その泉を「宗祇水」または、餞の歌から「白雲水」と称しています。

 天文9年(1540)越前の朝倉氏の襲来に遭い、敗走させるものの痛手は大きく、11代常慶は赤谷山(八幡町)に移ります。

 永禄2年(1559)常慶の女婿・遠藤盛数は内紛から東常慶を追放し、遠藤氏は八幡城を築きました。以後郡上東氏は絶えてしまいますが、明治11年に三上遠藤氏から東に改姓し、明治17年子爵になりました。現在、初代胤頼から数えて27代目当主胤B氏から、焼失を免れた書物が寄贈され、東氏記念館に収まっています。

 昭和54年、県営圃場整備工事中に東氏館跡が発見され国の名勝に指定されました。これを契機に東氏の再評価が始まり、昭和63年、能くるす桜(別名常縁)が復曲されて明建神社に奉納されました。

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