「晴れましょう」


 「明日は晴れましょう」
 子どものころ、天気予報では、こんな奇妙な日本語が流れていた。子ども心に「明日は晴れるでしょう」ではないかと反論していたものだ。
 「○○ましょう」というのは、人を誘っている言葉だからだ。「晴れましょう」なんて言うけど、心は人に決められるものじゃないんだ。「ボクの悲しい心は、人に言われて晴れるものじゃない。」とか思ったものだ。
 いやしかし、最近の天気予報では、さすがにこんな古風な言い方はしなくなった。

 一.「明日は全国的に、晴れでしょう。」
 二.「岐阜県地方、明日は晴れるでしょう。」

 これが最近の表現だが、「一」の方は「晴れ」を名詞として扱っている。「晴れ+だ」の丁寧な形=「晴れです」だ。つまり、「晴れる」という動詞の表現から逃げて問題を解決しているわけだ。
 一方、「二」は、「晴れる」に「です」をつけていることにお気づきだろうか。「岐阜県地方、明日は晴れるです」と言うとおかしいのに、これが予想となって「でしょう」の形を取るとおかしさを感じなくなるというのが現代人の弱点だと思うのだが、どうだろうか。
 冒頭の「晴れましょう」は、この問題を見事に解決している。「明日は晴れます」の形に「よう(推定)」をつけているわけで、一点の曇りもない正統な日本語である。これが正しいという感覚を何人の人が持っているだろうか。

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