「さようなら」
「『おはよう』は、『おはようございます』と言うのに、『さようなら』は『さようならございます』と言わないねえ」、という子がいた。廊下ですれ違った二人の会話である。ボクは心の中でくすくす笑って職員室でじっくり考えることにした。
これは「さようなら」が、もともとは接続語だからではないかというのがボクの意見だ。ご意見を伺いたい。
「さようなら」を、漢字を使って書くと、「左様なら」である。そうそう、時代劇で、誰かに質問された誰かが、「さよう」と言っているのを聞いたことはないだろうか。あれは、「そういうこと」と言っているのだ。「さようじゃ」と言えば、「そういうことじゃ」になる。だから、「左様なら」は、「そういうことなら」という意味である。これは、特に別れを表す言葉ではない。
「さらばじゃ」なんて格好つけた言葉だって、「そういうことなら」だ。「さらば」は「さ+あらば」の縮まった形なのだ。それに、子どもの使う「じゃね」「それじゃ」も、大人の「では」も、どれもみんな「そういうことなら」ということじゃないか。ううむ、どれも全部、後を引く言い方。「そういうことなら」と言われると、続きが気になる。
「そういうことなら、続きは明日にとっておきますね。
また明日、会いましょう。」
「そういうことなら、また明日も一緒にいましょうね。
頼りにしていますよ。」
「そういうことなら、仕方ないから、ちょっとの間、離れているけど、すぐまた会えるから、心配しないでね。」
言いたいところを言わないのがこの言葉の作法であるとしたら、日本人はなんと美しい言葉を発明したものかと、感動せざるを得ない。
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