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ころは二月十八日の酉の刻ばかりのことなるに、をりふし北風激しくて、
磯打つ波も高かりけり。舟は、揺り上げ揺りすゑ漂へば、扇もくしに定まらずひらめいたり。
沖には平家、舟を一面に並べて見物す。陸には源氏、くつばみを並べてこれを見る。
いづれもいづれも晴れならずといふことぞなき。与一目をふさいで、 「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、 願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。 これを射損ずるものならば、弓切り折り白害して、人に二度面を向かふべからず。 いま一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢はづさせたまふな。」 と心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、 扇も射よげにぞなつたりける。 与一、かぶらを取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。 小兵といふぢやう、十二束三伏、弓はつよし、浦響くほど長鳴りして、 あやまたず扇の要ぎは一寸ばかりおいて、ひいふつとぞ射切つたる。 かぶらは海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。 しばしは虚空にひらめきけるが、 春風に一もみ二もみもまれて、 海へさつとぞ散つたりける。 夕日のかかやいたるに、 みな紅の扇の日出したるが、 白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ 揺られければ、 沖には平家、 ふなばたをたたいて感じたり、 陸には源氏、 えびらをたたいて どよめきけり。 |
扇の的 |