ネルチンスク条約以来ロシアと清朝の間は平穏な状態が続き、康煕帝に続く第5代雍正帝の治世に入り、1727年にはキャフタ条約でモンゴルでの両者の国境が確定した。以後キャフタは鎖国政策を強める清朝にとって、ヨーロッパに対し開かれた北の交易の窓口として、19世紀半ばまで重要な意味を持つ。また、この時の国境線がそのまま現在のロシアとモンゴル共和国の国境線になっている。この条約と前後して、ロシアではピョートルの遺命により、東方海域の調査が国家事業として本格的に開始され、1728年にはベーリングがベーリング海峡を発見している。この後1867年に合衆国に売却されるまで、アラスカはロシア領となる。
 ロシアはこの頃から極東地域に大きな関心を持つようになったが、清朝との対立を避け、北方から回り込むルートを重視した。地図中に示す大黒屋光太夫(伊勢の船頭、1783年アリューシャン列島に漂着後、エカチュリーナ2世に首都ペテルブルクで謁見。遣日使節ラクスマンとともに1792年に根室に来航)の帰還ルートもその様子をを示している。対日貿易に関心を持つエカチュリーナ2世によって、ロシアは千島列島を支配下に入れ日本近海に迫りつつあった。