フビライ=ハンは、モンゴル帝国の本拠地を南方の農耕地帯に求め、都をカラコルムから大都(現在の北京)に遷都し(1264年)、国号を元と改めた(1271年)。そして、南宋を滅ぼし(1279年)、また高麗の民衆を徴用して鎌倉幕府時代(執権北条時宗)の日本への侵攻を図った(元寇=1274年、1281年)。さらに南方のミャンマーに侵攻してパガン朝を崩壊させ(1287年)、ジャワ島にも遠征軍を送った。ジャワ軍は元軍を撃退し、新しい指導者がマジャパヒト王国を建国した(1293年)。
 しかし、ハン一族のなかにはフビライが大ハンに就いたことに対する不満も強く、オゴタイ=ハンの孫ハイドゥの反乱(1266〜1301)をきっかけに、西方の支配を任されていた4ハン国は元から離れていった。 しかし、その後もモンゴル帝国は、ゆるやかな結合を保ち続け、陸上・海上の東西交通も途絶えることはなかった。