五代の後周の将軍であった趙匡胤(太祖)は960年に宋(北宋)を建国し、つぎの太宗は979年北漢を滅ぼし、中国を統一した。しかし、燕雲十六州は引き続き、遼(契丹)の支配下にあり、その奪回は宋の国家的な悲願となった。
 
宋は、唐末や五代の混乱の基となった、藩鎮勢力の乱立や武断政治の風潮を抑えるために、軍人ではなく学識のある文人官僚による政治(文治主義)をとった。宋はこれにより、中央政権的な国家となったが、その一方で地域の軍事力は弱体化し隣接諸民族の侵入を招くことになった。

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