遼滅亡後も宋の政治は乱れ国力の低下が続いていた。金は遼を滅ぼした後、華北に侵入し、宋の都開封を陥落させ、上皇の徽宗と皇帝の欽宗を捕らえ(靖康の変)、北宋を滅した。
 欽宗の弟である高宗は、江南にのがれ帝位につき、南宋を建国した。
 南宋では金に対する政策をめぐって、岳飛ら主戦派と秦檜ら和平派による対立が起こったが、和平派が勝利し、金との間に講和条約(紹興の和議)が結ばれた。この講和条約では、南宋は金に対して臣下の礼をとり、南宋は銀25万両、絹25万匹を毎年金に納めること。両国の国境を准河とすることなどが決められた。