岐阜市内を流れる長良川には長良橋・金華橋・忠節橋など多くの橋があります。長良橋はそれらの橋の中でもっとも早くにかけられた橋です。
明治時代に入り,当時の岐阜町と長良川北地区との交通を便利にするために,明治7年に初めて長良川に橋が架かり,建造年から明七橋(めいしちばし)と呼ばれました。
岐阜町側約44メートルは水がない場所が多いので木橋としました。
北側は水が流れ水深があるので綱(つな)を渡し,それに14艘の舟をつないだ上に,幅4メートルの板を渡して通路としました。
通路の両側には手すりを付け,荷車などのすれ違いができるように待避場所ももうけられました。
有料の橋でしたが利用者が多かったと言われています。大水になると通れなかったそうです。
明治17年に全体が木の橋になりました。この橋になって雨が多いときでも通行できるなど,大変便利になりました。ただし,この橋も有料の橋でした。
明治末期になり馬車や荷車の通行が増え,橋の痛みが激しくなり架け替え工事が始まりました。
大正4年になりアーチ型で幅8メートルの鉄橋が完成し,通行料金も無くなり通行量が飛躍的に増えました。当時は荷車や馬車が物資輸送の中心でした。
やがて,橋の上を多くの自動車が通行するようになり橋も傷み,自動車が通ると橋板が揺れて音を出すようになりシロホン橋と悪口を言われました。やがて近代的な橋に作り替えられることになり昭和25年から工事が始まり昭和32年に完成しました。
現在の長良橋は,一日中多くの自動車が通行する重要な橋の一つであるとともに,橋の上流で行われる鵜飼いや金華山・岐阜城といった岐阜市観光の要衝としての役割も担っています。
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