長良川の治水を語る際には必ず,ヨハネス・デレーケや平田靱負の名前が出ますが,この二人以外にも木曽三川の水と闘い,治水事業に命をかけた数多くの先人たちがいます。彼らの偉業はデレーケなどの陰に隠れ紹介されることがあまりありませんし,また資料も散逸してその偉業を検証することが難しくなっています。
ここでは,そのような治水事業に命をかけた何人かの先人達を紹介します。
●木曽三川下流改修の実現に奔走した山田省三郎
現在の羽島郡柳津町佐波の旧家に生まれた山田省三郎は少年のころから治水に熱心で19歳のときには加納藩主に堤防修築の急務を説いたことがあるといわれています。明治12年は岐阜県最初の県会議員に当選し同じ水に悩む安八郡選出の議員,脇坂文助,国枝小左衛生門とともに西濃治水派と呼ばれる一大勢力を形成して治水の重要性を再三にわたって主張し,明治13年には輪中地域の治水功労者片野萬右衛門らとともに「治水共同社」という有志団体を結成し木曽三川改修の実現に全精力を注いだのです。
その後衆議院議員を連続3期に渡って勤め,明治43年に内務省治水調査会で木曽川上流改修問題が諮問されたときには,病中にかかわらず上京し,その不備な点について論難するなど,始終治水に尽くし,大正5年(1916)75歳で病没しました。「昔,禹は水を治むること3年,家門を過ぐれども入らず」という古文を例に引き,家を顧みず治水に捧げた生涯でした。
●私財をなげうって治水事業に奔走した片野萬右衛門
山田省三郎とともに「治水共同社」を作った片野萬右衛門は,福束輪中の名家に生まれ私財をなげうって治水事業に奔走した人物です。
萬右衛門は利害の異なる輪中地帯の村々の意見をまとめ大榑川の修築や維持,福束輪中の排水樋門の築造などに尽力しました。
こうした偉業の中でも治水共同社の設立は,特筆すべきものでした。明治13年,80余りの輪中が利害や損得を乗り越えて団結し,従来にない事業組織を完成させました。彼は木曽三川分流工事が着手される前の明治18年に没していますが,三川分流工事実現に向けて,中心となって取り組むとともに多大な役割を果たしたのです。
地域の人々は萬右衛門の徳を慕い大榑川の締め切り堤の跡に碑を建てて偉業を後世に伝えています。
●組織的な治水改修運動への道を開いた高橋示証
高橋示証の生地岐阜県今尾町は,木曽・長良・揖斐の三大川に囲まれ慢性的な洪水常習地帯でした。父の後を継ぎ住職となった示証は,仏の教えを説いて回るとともに治水をめざす同士と結束し,治水事業に奔走しました。高橋示証は中央政府に積極的に建言するとともに,一方では地元住民に対しても分流工事の早期実現をめざす有志をつのるため輪中全域を行脚して募金活動を行ない組織的な改修運動へ発展させていきやがて全国的な「治水共同社」へと進展していきました。木曽川改修工事は着工し,明治33年には長年の悲願であった三川の分流は実現しました。大正2年,示証は改修工事を見届けたかのように,86歳で永眠しています。現在でも,浄雲寺にはその業績を顕彰する治水碑が残されています。
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