当時の技術では完全な三川分流はできなかったものの,宝暦5年3月28日,すべての工事が完成し,幕府役人による見分も終了しました。平田靱負は,5月24日付の報告書を部下に預けて薩摩に帰し,多大な費用と多くの犠牲者を出した責任をとって,大牧の役館で自害し,52歳の生涯を閉じました。時世は「住み馴れし里も今更名残にて,立ちぞわずらう美濃の大牧」と侘しい気持ちを詠んでいます。遺体は,舟で桑名まで運ばれ,薩摩藩と縁の深い京都の大黒寺で埋葬されました。しかし,最後まで幕府を窺い,この自害については報告されませんでした。この碑は彼と薩摩藩士たちの業績を後世に伝えるために昭和3年5月に建てられました。

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