宝暦3年(西暦1753年)に始まった薩摩藩による木曽三川分流工事は,輪中地域の治水工事を代表する難工事として広く知られています。
江戸時代,木曽川の尾張側は御囲堤とよばれる堤防が築かれ,美濃側の堤防は尾張藩の厳しい条件によって思うように補強できず,輪中地帯は洪水のたびに水害に苦しめられていました。
この水害を無くすために,江戸幕府は美濃郡代・井沢弥惣兵衛の計画をもとに,宝暦4年に木曽三川分流工事を薩摩藩に命じました。
薩摩藩は家老の平田靱負を総奉行として,この難工事に取り組みました。
宝暦治水の工事区域は広大な輪中地帯で,堤防の延長も110kmに及ぶ大工事でしたので,全体を4つの区域にわけて進められました。
これらの工事の中でも大榑川洗堰と油島締切堤の2つの工事は,難工事でした。
大榑川洗堰は洪水時に長良川から大榑川に流れ込む水を減少させる目的で作られました。
油島締切堤は当時油島付近で合流していた木曽川と揖斐川を分流するために作られました。
薩摩藩は,この工事で,87名の死者を出し,40万両の資金をつぎ込みました。総奉行の平田靱負がその責任を取り工事完成後自刃するなど大きな犠牲を出しました。輪中地帯の各地には工事犠牲者の墓や碑が多数残っており,今も地元の人々によって大切に守られています。
このような多大な犠牲を出した宝暦治水ですが,三川の完全な分流工事は,デ・レーケによる明治の改修を待たなければなりませんでした。
|