江戸時代に行われた宝暦治水は、薩摩藩の多大な犠牲のもとに実施されましたが、当時の技術では木曽三川を完全に分流することはできず、その後も輪中地帯はたびたび水害に見舞われていました。
 明治時代に入り、治水対策を望む声に答えて、政府はオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの提案した「木曽川改修計画」に着手することを決定しました。明治20年から始まり25年間に渡って行われた改修工事は、その後明治改修と呼ばれ、木曽三川を完全に分流することになります。
 明治改修の主な内容は、背割堤と呼ばれる木曽川と長良川の流れを分ける堤防を作る。
 この堤防には堤防近くの水の勢いを抑える役目をするケレップ水制が作られました。
 背割堤の下流の木曽川の流れを立田輪中と福原輪中の間に新しい川を作って流す。
 水の高さが違う木曽川と長良川の間を船が行き来できるように福原輪中の船頭平に閘門を設ける。
 長良川から分かれて流れている大榑川・中村川・中須川を締め切る。
 油島洗堰を完全に締め切る。
 河口部が土砂で埋まるのを防ぐために、木曽川と揖斐川の河口に導流堤と呼ばれる海に突き出した堤防を作る・・・・、といったように、下流部の川の流れを作り替える大規模なものでした。
 この改修工事でほぼ現在の木曽三川の流れができ、水害が大幅に減少しました。
 明治以降の最初の近代的治水工事であった木曽川下流改修の成功により、その後の全国の河川改修が促進されることになったのです。

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