歴史と文化の礎をなしてきた東氏は,11代320年余りにわたって郡上郡山田荘(現・郡上市大和町)を治めました。特に2代・胤行(たねゆき)は鎌倉幕府の御家人で和歌に優れ,藤原定家の子・為家から歌道を学ぶと共にその娘を妻とし,中央歌壇にも広くその名を知られました。
 代々歌道に優れていた東氏は,以後も高名な歌人を輩出しています。東常縁もその一人で当時,和歌の最高峰とされていた「古今集」の研究の第一人者でした。
 彼は,はるばる都より訪ねてきた連歌師の飯尾宗祇にその奥儀を伝授したことから,「古今伝授」の祖といわれています。
 常縁の和歌とのかかわりとして有名な出来事として,美濃国守護土岐氏の守護代斎藤妙椿(みょうちん)と和歌のやりとりをして,押領された所領を取り戻したということが挙げられます。
 これは,当時の時代背景から,東常縁が関東へ出陣していた留守をねらい,妙椿が奇襲攻撃をかけ領地も居城の篠脇城(郡上市大和町)も奪ったことに端を発します。
 その後,城を奪われた東常縁が詠んだ和歌が,都で評判になり,城を奪った妙椿は後味の悪さと風評が気になり,「歌を送ってくれれば,領地は返してもよい」と人を介して伝えました。そのため関東にいる常縁から10首の和歌が届けられました。
 その1首が「あるが内にかかる世をしも見たりけり人の昔の猶も恋しき」という歌で,これに対して,妙椿は次のような歌を返しました。「言の葉に君が心はみつくきの行末とほく跡はたがはじ」
 やがて上洛した常縁は妙椿と会い,所領を返してもらったといことです,このことは15世紀後半までに成立した軍記物語「鎌倉大草紙」に紹介されているエピソードで文人武将としての二人のゆかしさがよく表れています。

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