このような混乱は、起こる出来事の間で、それらの起こり易さ(難さ)を十分検討していないことに起因しています。
例えば、さいころを振るとき、1から6までの目はどれも平等に起こることを前提(数学では、このことを「同様に確からしい」という表現を使います。)に、議論が進められます。1の目が他の目より出やすいような「いかさまさいころ」の場合は、起こり方に偏りあるということになります。
月に「ウサギが居る」と「居ない」という2つの出来事は、明らかに平等には起こりませんので、「2つの場合の1つであり、1/2である」という議論は成り立ちません。
ではこの場合、出来事の起こる可能性について、どのように平等性を確保すればよいのでしょうか。
月には、「ウサギ」だけではなく、「亀」「馬」「虎」「牛」「猫」「蛇」「雀」・・・
まだまだ、「さくら」「タンポポ」・・・などの植物も
「バクテリア」は居るどうだろうか、
などと、すべての生き物について際限なく列挙して、その出現確率の平等性を確保しながら議論する・・・・これは不毛な議論ですね。
しかし、このような「宇宙に生命が居るか居ないか」を真剣に議論した人がいます。
その人は、アメリカのフランク・ドレイクです。
かれの議論は次のとおりです。
私たちの太陽系が属している銀河系だけでも、恒星の数は2000億個といわれています。
その恒星の周囲にはいくつかの惑星があり、その中には生命を発生させ高度な文明をもつ星があっても不思議ではありません。
この式から導き出されるNの値が、地球人と交信可能なレベルの文明をもつ星の数です。 あなたも計算してみますか。 ついにこの議論は机上の空論から発展して、「地球外知的生命の探索」という巨大プロジェクトSETI ( = Search for Extraterrestrial Intelligence ) として実際に探索が開始されました。世界中の多くの人がこのプロジェクトに参加しています。 |