天正11年(1538年)正月、遠藤左馬之助慶隆・同新兵衛胤俊らは、岐阜城の織田信孝に呼応して武儀郡立花山に篭城して秀吉軍に抵抗した。秀吉は兼山城主森長可・鉈尾山城主佐藤六左衛門等に命じて立花城を激しく攻撃させた。 両遠藤は少数の兵力で必死に抵抗し、また岐阜城の織田信孝に援軍を要請した。これに対し、信孝は「援軍は必ず送るから安心して守備を厳重にせよ」と激励した軍令状である。 なお さき人 数三千ほど先々 出し候猶々追々 申し付け候可心安か るべく候 おひ 申越候通り 心へ候則人数 出し候心安かるべく候 一、我々さきより一 そう次第出馬たるべく候 一、上方より我々存分 相済し候て今日十七日 玄以とひた平左衛門尉 両人越候事さやうに 候へども、其方事 見はなしかたき事候 間身上はて候とも 馬出し可申すべく候其段 心安かるべく候弥々夫丈に 申しつけられたく候 為其自筆にて申候 恐惶謹言 よる八ツ時ニ申し候 後正月十二日 花押 遠藤新兵 殿 同 左馬 殿
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