東常縁十首の歌碑
京都で応仁の乱が勃発し、全国へ波及していく中、応仁2年(1468)9月、西軍に属する美濃国守護代・斎藤妙椿は大軍を率いて、東軍に味方する東氏の居城・篠脇城を攻め落としました。当時城主の東氏数はよく戦いましたが、来治以来250年にして初の落城に及びました。氏数の弟常縁は、次の一首を詠みました。「あるがうちにかかる世をしも見たりけり人の昔のなおも恋しき」生きて見る落城の悲しみをこめたこの歌は、いたく人々の胸を打ち、いつしか妙椿の耳にもはいりました。妙椿は「常縁はもとより和歌の友人なり歌をよみておくり給わば、所領もとのごとくに返しなん」と語り、歌道の達人であった常縁は十首の歌を詠んで送り届けたといわれます。和議が成立し文明元年(1469)京都を舞台に返還式が行われ、篠脇城は返されることになりました。和歌の贈答によって、東氏の本領は一滴の血を流すこともなく、めでたく返還されたのです。これを人々は「和歌の功徳」として称賛し後世まで語り伝えました。
|
名勝東氏館跡庭園
昭和54年、県営ほ場整備で篠脇山の麓を工事中に、多くの陶器片、青磁や白磁などや、建物の礎石らしきものが発見され、発掘調査の結果、鎌倉時代から室町時代にかけて当地を治めた東氏の館跡であることが確認されました。中島を配した優雅な池泉部は風情に優れ、貴重な中世武将庭園としての学術的価値も認められ昭和62年に国の名勝に指定されました。当時の石組みがほぼ完全な形で発掘されたので、一部護岸の石を補い風化防止処理を施した以外は発掘時のまま保存されています。
|
篠脇城
鎌倉末期、230余年間にわたる東氏の本拠地です。標高570m、麓からは約270mの山城で、山頂には本丸、二の丸、腰郭の三段の平地があります。この平地を囲んで30本余りの「臼の目掘」と呼ばれる竪堀が構えられており、この城の大きな特徴となっています。天文9年(1540)、越前朝倉氏が来襲しますが、東氏は腰郭にあらかじめ丸太や丸石をためておき、竪堀を利用して攻め登る敵勢に落しかけて撃退したと伝えられています。
|
三日坂/千人塚
天文9年(1540)、越前朝倉氏が攻めた篠脇城の戦いで、三日間往来ができなかったという戦場跡です。また、この戦いで亡くなった兵士を埋めたのが「千人塚」といわれ、木戸口塚、田口塚など牧地内の水田に四基が確認されています。
|
明建神社
承久3年(1221)、東氏が下総国から郡上へ入部したときに、千葉家の氏神である妙見菩薩を勧請して、東家の氏神としました。明治維新の神仏分離令により神社名を明建としましたが、祭神の変更は表向きのことで、妙見菩薩であることは現在でも変わりはありません。毎年8月7日には例祭「七日祭」が行われ、その夜、拝殿において薪能「くるす桜」が奉納されます。
|
木戸口清水
別名長刀清水、千代清水ともいいます。「み仏に手向の閼伽も水無月の神に祈りてくるす野の里」嘉吉元年(1441)、日照り続きのこの地方を神官の娘千代が和歌を詠んで湧水させたという伝説の泉。地酒「母情」はこの水から作られます。
|
妙見桜並木/大杉
樹齢八百年といわれる「神迎え杉」と「神帰り杉」の間には百本余りの山桜の古木が立ち並んでいます。篠脇城の馬場跡といわれるこの桜並木は、春の時期は桜のトンネルとなり、秋には彼岸花が咲き誇ります。
-
|
妙見集落
東氏の武士団、遠く下総国(現千葉県)から帯同してきた人々によって作られたと考えられています。明建神社の例祭「七日祭」の出仕者もほとんどがこの妙見集落の人々です。
|
慈永大姉の墓
慈永は東家10代元胤婦人とされています。明治36年東家代々の墓も並んで建設されました。
|
木蛇寺跡
東氏一族の五山文学僧の登龍門であった禅寺です。ここから、南禅寺や建仁寺の住持を務めた高僧も出ています。
|
東林寺跡
東氏ゆかりの尼寺の跡です。近年、村の人が夢のお告げで懸仏を何体か掘り出しました。
|
シシ垣散策路
イノシシが畑を荒らさないようにと昔の人がつくったシシ垣があり、散策路として復元しました。近くには、芋穴と呼ばれる昔の野菜の貯蔵庫が残り、散策路沿いにはエビネなどの山野草が植えられています。
|
古今植物園周辺
古今集に詠まれた植物が植栽されている「古今植物園」の周辺には、春になるとセツブンソウ、カタクリ、オウレン、コバイモなどの花が見られます。
|