●加治田城跡●

 永禄六年に信長の侵攻に備えるため中濃三城(関・堂洞・加治田城)は反信長の盟約を結んだ。 そして永禄八年、いよいよ中濃侵略の軍を進めた信長は、鵜沼・猿城(坂祝町)の両城を陥れ、蜂屋堂洞城の攻略に向かってきた。 信長は堂洞城主岸勘解由に対し、無用の戦いを避け見方に用いようとするが、勘解由はこれを受け入れることはなく、主家である齋藤家に対する一徹の姿勢を崩さなかった。 しかし加治田城主佐藤紀伊守忠能は梅村良沢の説得により信長側についたことを怒った岸方は堂洞に嫁いだ紀伊守の娘八重縁を刺殺し、加治田城に面した長尾丸山へ立てたという。
 旧暦の八月廿八日にいよいよ堂洞城の攻略が開始され6時間の攻防の末、遂に堂洞城は陥落する(堂洞合戦)。 その後関城も斉藤新五の活躍により落城し、中濃地方は信長の勢力圏に入った。 その後、斉藤新五は信長の命により佐藤紀伊守から加治田城主を嗣いだ。「信長公記」によると斉藤新五は天正十年本能寺の変で討ち死にしたと伝えられる。
 川浦川の北にある梨割山から南東へ峰続きの山が「古城山」と呼ばれており、加治田城跡と考えられている。 山頂の尾根には一の丸、二の丸と呼ばれる平場があり、そこから南へ曲輪や掘がいくつも広がっており、石垣の根石も確認されている。

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