●加治田城跡●
永禄六年に信長の侵攻に備えるため中濃三城(関・堂洞・加治田城)は反信長の盟約を結んだ。
そして永禄八年、いよいよ中濃侵略の軍を進めた信長は、鵜沼・猿城(坂祝町)の両城を陥れ、蜂屋堂洞城の攻略に向かってきた。 信長は堂洞城主岸勘解由に対し、無用の戦いを避け見方に用いようとするが、勘解由はこれを受け入れることはなく、主家である齋藤家に対する一徹の姿勢を崩さなかった。
しかし加治田城主佐藤紀伊守忠能は梅村良沢の説得により信長側についたことを怒った岸方は堂洞に嫁いだ紀伊守の娘八重縁を刺殺し、加治田城に面した長尾丸山へ立てたという。 |