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江戸時代の中ごろから、領主のきびしい年貢の取り立てや引き上げに対して、農民が集団で反抗する百姓一揆が全国で増えてきました。
郡上郡でも、宝暦郡上一揆と呼ばれる一揆が起こりました。
1754(宝暦4)年、郡上藩主金森頼錦(は、藩の財政難を解消するために、年貢の取り方を、それまでの定免取り(から検見取り(に変えようとしました。農民たちは、これに反対して、団結して一揆を起こしをしました。藩では、きびしい弾圧をして、検見取りを行おうとしましたが、農民たちも、激しく抵抗し、4年もの長い間一揆を続けました。
この一揆は、藩主から農民まで、一揆にかかわる人すべてが処分を受けるという、類のない大事件でした。そして、百姓一揆が原因で、幕府の首脳部まで処分を受けたのは、江戸時代を通じてこの事件だけでした。 |
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