鉱山資料館施設の概要学習資料関連情報資料検索交通アクセスホーム
関連情報
神岡城

i3-1.jpg (4117 バイト)風が香り、木々が色づく山間の町神岡に、悠々と佇む神岡城。 戦国時代、武田信玄の家来である山県三郎兵衛昌景は、この城を宿舎にあて、飛騨・越中攻撃の拠点としました。 その後、豊臣秀吉により全国統一がなされた頃、金森長近が飛騨一帯を支配するようになり、神岡城は山田小十郎が城代として居城するようになります。 しかし、幕府が一国一城という新制度を発令した元和元年(一六一五)には、神岡城は閉城、破却となりました。 現在の城は、昭和四五年(一九七〇)に復元されたものですが、城郭様式を再現した二層三階の天守閣や、当時の遺構を残す壕や石塁などからは、戦乱の往事が今もなお、その面影を残しています。 内部には、実際に使われた鎧、刀剣、馬具などが展示され、一般に公開されています。 また、最上階からは神岡の町を東西南北に向けて眺望できます。 松風吹く高台の史跡へ、歴史のロマンを訪ねて。 しばし悠久の時をお楽しみください。

郷土館
i3-2.jpg (6567 バイト)

明治元年に建築されたという民家をそのまま利用する郷土館は、神岡町大字割石にあった「松葉家」を移築したものです。 北飛騨地方古来の民家様式をそのままに残す建物は、岐阜県の重要有形民俗文化財に指定されており、手斧梁と呼ばれる曲線材の梁十四本からなる小屋組は特に見ごたえがあります。
二〜三階は養蚕用に配置されており、内部では、江戸時代から使用されてきた民具や農具が展示され、一般に公開されています。 飛騨人の素朴な暮らしぶりから生まれた知恵の数々。 懐かしさと温もりに触れてみてください。

神岡町

    位置・地勢  

神岡町は岐阜県の北端に位置し、北は富山県、東は上宝村、南は古川町・国府町、西は宮川村に境が接しています。
近隣都市からは、高山市の北へ44.3km、富山市の南南東48.0kmの位置にあります。  周囲は飛騨山脈とその支脈に囲まれ、乗鞍北麓に源を発し南北に貫流する、神通川水系の高原川とその支流にそって集落・耕地が点在する渓谷型の町です。 気候は、内陸高冷地にあるため、大陸性気候の特性を有し、昼夜間の寒暖差が大きく、冬季3ヶ月は降雪に埋まる積雪寒冷地です。 恒風は、夏季は南、冬季は北西となっていますが、山々に囲まれているため風は比較的微風です。  
地形的には、河川の浸食より幾階層かに分かれた河岸段丘状の土地に市街地が形成されていることも特色の一つです。  
地質は古く、片麻岩や安山岩、花崗岩などにおおわれています。

町のおいたち

神岡町には、約1万年前に使われていたといわれるプレ縄文時代の打製石器が町内各所で発見されていることから推して、古くから高原川流域に人類が居住していたことが推測されています。  
建武中興以後まもなく平家の遺裔と称される江馬小四郎時経(改名して輝経)が高原郷を10数代にわたって領したが、天正10年本能寺の変の秋、三木氏との戦に敗れ滅亡した。 その後元禄5年までの約110年間高山に本城をもつ金森氏の領するところとなり、明治維新までの180年間は徳川幕府の天領となっていました。  
鉱山の町といわれる当町、神岡鉱山の起源は、天正末期から文禄慶長にかけて約10年間、越前の人、糸屋彦次郎宗貞(金森長近に仕え、茂住宗貞と称す。)が金山奉行として現在の茂住坑、和佐保坑を開拓したことに始まり、旧幕時代から明治初年までは、代官直轄の鉱山になったり、民間の山師によって採掘が続けられていたが、明治7年に三井組が鉱山経営に着手。 以後108年にわたり三井系の経営となっていたが昭和61年に神岡鉱業(株)として、分離独立し今日に至っています。  
徳川幕府の大政奉還により、明治元年5月飛騨県、同年6月高山県、明治4年11月高山県を廃して筑摩県と合併し、同9年8月岐阜県所管となっています。  
明治8年7月高原川49ヶ村を合して神岡村となりましたが、明治22年市町村制の施行により、同年6月船津町、阿曽布村、袖川村に分離、以来61年の歩みを続け、昭和25年6月10日再びこの1町2村が合併して神岡町として発足、昭和55年6月の合併30周年を契機に、あらたな町づくりの歴史が始まっています。

リンク集

神岡町
東京大学宇宙線研究所