●格子戸のある町並み●

 名鉄電車の羽島市役所前駅から北東の町を歩くと、格子戸のある家が目につきます。 通りを見渡すと、一軒や二軒ではなく、格子戸づくりの家が町並みとなって続いています。
 竹鼻の町に格子戸のある家をこんなに数多く誕生させた理由は、なんだったのでしょうか。 それは、かって竹鼻が織物の生産とその流通の中心地として栄えた歴史と人々の気風であったと言われています。
 江戸時代に入ると竹鼻の町は、この地域の陸上の要所となって栄えだしました。 江戸期の1700年代の後半、竹鼻の町に京都西陣から木綿織物の技術が伝わりました。 その後、この技術は、竹ヶ鼻、葉栗郡、中島郡に広がり、木綿織物の機留縞、管大臣縞、美濃結城縞などの総称で知られる「美濃縞」の生産地として発展しました。 葉栗、中島郡の農家では、副業として美濃縞が生産されだし、竹ヶ鼻の町は、その中心的産地となりました。
 そして、江戸後期になると、機屋・問屋・仲買などの制度が設けられ、竹ヶ鼻の町の中には、問屋や仲買の店が数多くできだし、人々の往来が前にも増して多くなりました。 明治期の20年代になると出機経営の形態にマニファクチャーが導入され、生産が急激に伸びていきました。 こうした中で竹ヶ鼻の人々は、しだいに経済的にも裕福になり、格子戸のある立派な家をあらそって建てだし、格子戸が続く町並みになっていったのです。
 格子戸は、織物産業の発達と竹ヶ鼻の人々の負けまいとする気風の中で誕生した文化遺産と言えるでしょう。 しかし、格子戸のある家は年々減少しています。 維持管理が大変であり、経済的な負担が大きいということからです。 こうした中で、みんなで格子戸を守ろうという動きも少しづつ芽ばえてきています。

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