●竹ヶ鼻城の歴史●

i2-1-1.jpg (3791 バイト) 応仁年間(1467〜1468)に作られたと伝えられる竹ヶ鼻城は、町のどの位置に如何なる程度のものであったのだろうか。 明確にこのことを記しているものは、一つもないが、大体の位置は、竹ヶ鼻町上城、下城両町からその裏にかけて構築されていたものと推定されます。 城の規模は、城というよりもむしろ砦といった方が適当と思われます。 城に係わる図面などは1枚も残存していませんが、金沢市兼六公園の宝物館にある屏風に竹ヶ鼻城が描かれ、城の規模を知る唯一の資料となっています。
 その屏風絵によると、竹ヶ鼻城は、城郭の奥の木立に高く石垣を積み、その上に二層の天守閣を思わせるような建物があり、屋根は瓦ぶき。 その斜め左前には、平屋建ての櫓様のものが一棟建ち、その下に2・3の家屋が立ち並んでいる。 その周りは、真っ白な城壁が取り囲み、斜め北向きに城門があってその前に木橋が架けられ、堀が全体をとりまいているという状況でした。
 こうしたことから、竹ヶ鼻城本丸があった場所は、竹鼻別院の北西に位置する松山大浦線沿いであったと思われます。 平成8年までは、この道路の北にある畑に「本丸跡」の石碑が建っていましたが、現在は、当資料館の西南隅の地に移動されています。
  さて、この城の構築者が誰れであったかということであるが、第1代の城主、竹腰伊豆守尚隆であろうと言われていますが、明確には定かでない状況です。

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