慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦に勝った徳川家康は、江戸をもとにした街道(道)を整備するために大事な場所に宿駅(荷物の運搬をする人や馬などを取り継ぐ設備のある所)をつくり、ここ御嶽宿は慶長7年(1602年)の街道整備開始とともにいち早く中山道の宿駅となりました。街道は参勤交代による大名の通行や一般の庶民の通行はもとより、日光例幣使、茶壷道中、姫宮の通行など、多くの人や物でにぎわうとともに情報も行き来しました。 御嵩町内には、御嶽宿と伏見宿の2つの宿があって、御嶽宿の西のはずれに天台宗の古刹大寺山願興寺があり、天保年間の「中山道宿村大概帳」には、宿の町並(長さ)は4町56間(約540メートル)で、家の数66軒、うち旅籠(旅人を宿泊させるところ)は28軒、そのほかに本陣・脇本陣・問屋・高札場などがあったと書いてあります。元禄7年(1694年)開宿といわれる伏見宿は、御嶽宿より西へ約4kmのところにあって、宿の町並は5町16間(約570メートル)、家の数82軒、うち旅籠は29軒、ほかにも御嶽宿と同じように、本陣・脇本陣・高札場がありました。
中山道を利用したのは人ばかりではありませんでした。文政4年(1820年)、ペルシャから幕府への献上品として駱駝が輸入されましたが、幕府が献上を断ったため興行師の手に渡り、各地を見世物として興行しました。ところが中山道を通って江戸へ向かう途中、興行師が病気となったため伏見宿松屋に3日逗留しました。 その時の様子が「伏見西町御日待帳」には次のように記してあります。 「当月六日駱駝と申すもの参り、…七日・八日と両日逗留いたし候ところ、所々より見物に参り、はなはだぐんじゃいたす…」 駱駝という珍獣を一目見ようとたくさんの人びとが押し寄せた様子がうかがえます。
※輸入されたのは、文政4年(1820)で、伏見に来たのは文政7年(1824)。