施設の概要 学習資料 関連情報 所蔵資料検索 交通アクセス

 明治2年(1869年)、中村岩井(現在の中地区大庭)の亀谷吉兵衛と金子光助が金毘羅神社参拝の帰り、大阪の川岸で黒い石のようなものを運んでいるのをみつけ「石炭という燃えて燃料になるものだ。」と教えられ、一塊を持ち帰り「これなら裏の山にある黒い石(亜炭はメタセコイヤという樹木の化石です)とかわらない。」と山から採って来て燃やしました。すると匂いがひどいもののよく燃えたため、これを商売にしようとあちらこちらへと走り回った結果、しだいに家庭燃料や製糸工場・公衆浴場などで利用されるようになり、やがて亜炭は一大産業に発展しました。

▲亜炭 ▲坑口あたりの炭車や貯炭


 第二次世界大戦中は戦争のための燃料として利用され、また戦後は産業がふたたび盛んになることに大きな力となり「御嵩の亜炭」として有名になりましたが、その一方でむやみに掘ったため落盤事故が多くなりました。
 昭和30年代に入ると燃料は亜炭などの固形燃料からしだいに石油などの液体燃料へと替わり、昭和42年には町内の全部の炭鉱が亜炭を掘るのをやめ、亜炭産業はその幕を閉じました。