日本軍は、日本の上空に吹く季節風を利用して、約9,000キロ離れたアメリカ本土まで、気球を使って爆弾を落とすことを計画しました。

 全国の生産者が総動員され、約9,000個の気球が打ち上げられ、そのうち約1,000個がアメリカ本土まで到着したと推定されています。

 風船爆弾の風船部分は直径約10メートルもあり、和紙にこんにゃく糊を塗ったものが使用されました。和紙は一番繊維の長い楮(こうぞ)で薄い和紙にすきあげられました。この紙をグリセリンで処理すると、柔らかくて強い紙ができたのです。この生産は、岐阜県、高知県、愛媛県などの和紙の産地で行われました。


岐阜市平和資料室に展示されている模型

岐阜と風船爆弾の生産

 美濃市牧谷一帯は、当時1,000軒を越える美濃和紙生産業者がいて、全国1,2の和紙生産地でした。1994年3月、生産が始まりました。

 完成した薄い和紙は、武芸川町に運ばれました。岐阜県立武芸高等女学校では、校舎の中で女学生たちが、和紙をこんにゃく糊で貼り合わせる作業をしました。和紙の間に空気が絶対入ってはいけないので、指で強く押してくっつけます。指先が割れて血が出たり、指紋が消えてしまうほどの辛い仕事だったそうです。

 1945年1月より、羽島郡柳津村(現在の柳津町)でも風船爆弾の生産が始まりました。作業は、静岡女子師範学校の生徒130人が、昼夜二交代で、和紙の裁断、気球の張り合わせを行いました。

 岐阜県は、風船爆弾の紙から、気球までを生産していたのです。

(参考資料:岐阜市平和資料室より)