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学習資料


杉崎廃寺跡

photo5.jpg (11546 バイト) 飛騨古川盆地の北西、岐阜県吉城郡古川町杉崎淡原地内に礎石のみが遺された杉崎廃寺は、風光明媚な田園地帯にあって、田んぼの中に整然と並ぶ金堂礎石と、二重孔式塔心礎の存在が古くから知られていた。
『斐太後風土記』(1873年)に「人里敢て其を動かさず」と記されているように、金堂礎石は露出したまま原位置を保ちつづけ、層塔の礎石も、いつの頃か心礎は近くへ移されたが、10数個の礎石は掘り起こされたままの状態で原位置に散乱していた。
これらの残礎について、地誌等の諸書はいずれも『宮谷寺跡』と記し、地元でも長い間、平安後期から織豊時代にかけて天台宗寺門派の法燈を維持した宮谷寺の遺址とされてきた。
昭和34年に岐阜県の史跡指定を受けた際、土地の大字をとって杉崎廃寺と名づけられた。
 杉崎廃寺は、これまでの発掘調査により7世紀末葉に創建された白鳳期の寺院跡であることが明らかになった。
小規模ながら主要堂塔を備え、金堂の東に塔を配し、中門・金堂・講堂が直線上に並ぶ伽藍配置は他に例をみない。
金堂や講堂・鐘楼の礎石は、創建当時の位置を保ち、伽藍全体の遺構がよく残されている点でも比類がない。
伽藍を区画する掘立柱塀は、中門から発して講堂に取りつき、ほぼ短形に囲繞している。
中門では妻中央の柱位置に接続し、講堂では妻中央の北寄りに取りつく。
 伽藍中枢部の全面に敷き詰められた玉石敷は全国でも初めての発見であり、その荘厳さは伝飛鳥板蓋宮跡や稲淵宮殿遺跡など、飛鳥の宮殿遺跡を彷彿させる。
飛鳥寺や薬師寺、三重県の夏見廃寺などでは、参道や基壇の廻りに石敷が確認されているが、杉崎廃寺のように伽藍地全面を玉石敷とするのは他に例をみない。
伽藍が低地に造営されたことと相まって、伽藍の清浄さと荘厳さを保つための石敷と考えられる。
 建物の礎石は、すべて火を受けた痕跡があり、8世紀の末、一度に焼失されたと推測される。
瓦は金堂と塔の一部に使われたが、屋根が檜皮葺きであっphoto6.jpg (8846 バイト)たことも杉崎廃寺の特徴といえる。
出土した郡符木簡には『和名抄』にみえる7郷のひとつ飽見郷が記されており、寺院の分布が郷単位であったことが推測される。