施設の概要学習資料関連情報所蔵資料検索交通アクセス


岩村城址

 三万石の城下町・岩村町の歴史は古く、鎌倉時代までさかのぼることになります。この長い歴史を語るうえで、欠かせないのが町のシンボル「岩村城」でしょう。
 岩村城の創築は、そもそも文治元年(1185)源頼朝の重臣・加藤景廉が、遠山荘の地頭に補せられたのにはじまります。遠山荘の広さは恵那郡から木曽の一部までに及ぶもので、本拠としたのが岩村。景廉は頼朝の信任が厚く側近として鎌倉にいたため、長男の景朝がこの地・岩村に着任することになりました。岩村に居をかまえた景朝は、加藤姓を改め遠山とし、美濃遠山氏の発祥となったのです。
 遠山氏は勢力を広げ、東濃の豪族として地盤を固めました。詰の城として峻険な山に作られた砦も規模が拡大され、大きな山城・岩村城へと発展しました。
 そして時は戦国の世へと移り変わり・・・。天下を狙う織田、武田、徳川の接点に位置した岩村城は、戦乱に巻き込まれのでした。織田方と武田方の激しい攻防戦、女城主の登場や森蘭丸の入城など、数々の歴史ドラマがこの城から生まれました。
 江戸時代になると、松平・丹羽氏など譜代大名の居城となり、東濃地方の中心地として城下町・岩村は大いに栄えました。また当時、藩士育成のため文教政策に重点をおいた岩村藩は、独特な文化を育み、佐藤一斎など多くの偉人も輩出しました。
 明治六年(1873)には岩村城も民間へ払い下げとなって姿を消しましたが、現在も石垣・土塁の全遺構が残され、広大な山城の規模・形状を偲ぶことができます。そして、岩村城への想いとともに、800年を超える永い歴史と文化が折りなす魅力あふれる町を愛する心もまた、変ることなく人々に受け継がれています。
gj_2.jpg (17534 バイト)
岩村城址
 岩村城は大和の高取城(奈良県)備中の松山城(岡山県)と並ぶ明治まで使用された日本三大山城の一つに数えられる城で標高721mの山頂にあり、城下町を見おろし、四方の山々も一望にすることができます。天然の峻険な地形をよく利用した要害堅固な山城で、江戸諸藩の府城の中ではもっとも標高の高いところに築城されており、しかも明治維新まで存続したのが、この岩村城です。
登城坂
日本一の高さにある山城跡へと、石畳の道が続く登城坂。 gj_1.jpg (17667 バイト)
六段壁
地形が急斜面のためにとった工法で六段階積みとなっているため、六段壁とよばれている。 gj_3.jpg (17940 バイト)
太鼓櫓
江戸時代、城下に時を知らせる為に作られた櫓です。昔そのままの姿で、平成二年に復元されました。 gj_4.jpg (12501 バイト)
 この岩村城の歴史の中、悲しい運命に翻弄されたひとりの女性がいます。織田信長の叔母がその人です。彼女は信長の天下掌握のため岩村城主・遠山景任に嫁ぎ、東濃は一時織田方の地盤となりました。しかし、景任の没後それも長く続かず、武田方の秋山信友の攻撃が始まることに・・・。当初この攻撃に対し彼女は、女城主として自ら武装して攻防したのですが、城内の兵と領民の命を助けるため、信友との婚姻により城をあけわたしました。この一件が信長の怒りをかい、織田方の大軍によって攻め滅ぼされるのでした。今も残る岩村城の石垣は、静かにその昔を物語っています。