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いわむらの偉人達

下田歌子
 幼名、平尾銘(せき)。代々学者の家、平尾家に生まれ、幼きより学問もあり、和歌・漢詩を詠み明治4年、18才にして江戸の祖父琴台を訪ね、翌5年に宮内省に出仕し、同年皇后陛下より詩歌献上により、その文才を認められ、歌子の名を賜る。その後、歌子は女子教育の道に進み、実践女子学園、女子工芸学校を創設し校長となる。まさに明治・大正を代表とする、女子教育者の名を恣ままにした。
三好学
 岩村藩・江戸藩邸で文久元年に生まれ、幼年を岩村で過ごす。わずか18歳で、光迪小学校校長に就任するが、その後、東京大学理学部生物学科を経て、大学院へと進み、植物学の研究を続ける。在学中、ドイツ留学を命ぜられ、帰国後32歳の若さで東大教授に就任、理学博士の学位を受ける。
 東大教授在任中に発表した研究論文は、100編におよび、その著書も100冊といわれ、我が国植物学の基礎を築き、桜と花しょうぶの研究における、世界的な第一人者として著名である。
佐藤一斎
 岩村藩主・松平乗薀の三男林述斎を師とし、幼年期より「騎射刀槍の術に精通し、書は13才にして成人の如し」と言わしめた。後に幕府学問所昌平黌に招かれ、儒学をもって世に立ち、彼の著書は「言志四録」などをはじめとする百余冊がある。門弟には、渡辺崋山、大塩平八郎など3千人を数え、幕末回天の事業に大きな影響をあたえしめた。
林術斎
 佐藤一斎の4才年上の師であり、幼い頃より勉学を好み、若くして朱子学派を率いるまでになり、26才の時、林家の養子となる。林家に入り、昌平黌を公の学校とする事に尽力し、その学頭となる。後に寛政3博士と呼ばれる柴野栗山。古賀精里、尾藤二州らと共に、幕府教育行政の充実を図る。現在の文部、法務、外務の三大臣の役職を兼ねたため、非常に多忙であった。
早矢仕有的
gi_5.jpg (10338 バイト)  今日の良心的な出版文具販売で名高い丸善の基を築き、丸善株式会社の創始者として知られる。
 明治維新をむかえ、福沢諭吉の門をたたいて慶応義塾に学び、福沢翁の事業を託され横浜に書店を開き、丸屋善七を名乗った。これが前出の丸善株式会社の名称の由来である。
飯野吉三郎
 岩村藩、武具奉行飯野益衛の子として生まれた。彼に対する世評は複雑であるが、明治の元老、山県有朋をはじめ、児玉源太郎など当時の各界名流の信任を得、高名であった。
 呪術を学び新宗教を興し、隠田の行者とも呼ばれた。天下を予言し、またよく的中したとも言われ、日露戦争の勝利を予言し、祈祷によりそれを導いたことは、今も多くの人々に語りつがれている。