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古墳とその時代
 3世紀から7世紀にかけて、各地に古墳と呼ばれる特別なお墓がつくられました。古墳は土を高く盛り上げてつくり、葺石や埴輪がならべられたりしました。新しい時代の古墳には、横穴の石室をつくるものもあります。また古墳からは、ほうむられた人といっしょにおさめられた遺品が見つかります。垂井町内では現在150基ほどの古墳が確認されており、たくさんの鏡が見つかったと伝えられている親ヶ谷古墳などの重要な古墳もあります。
古代の垂井
 古代の垂井地域は美濃国府が置かれ、また付近には不破の関や国分寺もある美濃国の中心をなす重要な地域でした。現在、美濃国府の発掘調査が行われ、しだいに当時の姿をあらわしつつあります。また、宮処寺や宮代廃寺などの古い寺院跡も分かっています。美濃国一の宮である南宮大社も、当町内にあります。 g_5.jpg (15689 バイト)
▲南宮大社
中世の垂井
 東と西の交通の要所であった垂井には、戦乱の時代の痕跡が色濃く残っています。南北朝の争乱では、北朝の後光厳院が難を逃れるため、この地に下ってきました。将軍の座をめぐり、足利義教と争って敗れた足利持氏の子、春王安王もこの地で処刑されました。連歌の巨匠、飯尾宗祇はこの地で連句会を催しました。また、謡曲で有名な大盗賊、熊坂長範の伝承もこの地に残っています。