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竹中半兵衛一代記
 豊臣秀吉の軍師として名高い竹中半兵衛重治は、垂井の岩手を本拠としていました。難攻不落の稲葉山城を家臣16名で落としたその鬼才は当代随一といえるでしょう。しかし、病のため、わずか36才の若さで惜しまれつつこの世を去りました。竹中氏の陣屋跡には、陣屋門、石垣、堀などが残り、当時の面影をしのばせています。
 

▲竹中氏陣屋跡
宿場のいとなみ
 慶長7年、中山道が整備されると、垂井宿は、江戸から数えて58番目の宿場町となりました。東西約800mの町並みには、本陣や脇本陣、問屋場、旅籠屋などが軒を連ね、宿場の機能を果たしていました。
  
庶民の旅
 江戸時代も後半になると、庶民文化が向上し、旅に出る人も増えました。人々は、持ち運びに便利なように工夫された旅の道具を身につけ、さまざまなガイドブックを持って出かけました。また、安く安全に旅をするために講という旅館組合が作られました。
 
近代の教育
 明治5年、政府は次代を担う国民の教育を行うために学制を発布しました。これにより、国民は身を立てて財産を保持し、家業を盛んにする必要があり、学校を設置する目的もそこにあるという基本精神が明らかにされました。