・
藤吉
(
とうきち
)
は、
下川筋
(
しもかわすじ
)
の代表的立場であり、知恵者であったと伝えられています。
・1755年(宝暦5年)11月、
東気良村善右衛門
(
ひがしけらむらぜんねもん
)
、同村長助、
切立村喜四郎
(
きったてむらきしろう
)
、
前谷村定次郎
(
まえだにむらさだじろう
)
らと、江戸城に向かう途 中の老中
酒井忠寄
(
さかいただより
)
の行列に「かご訴」をしました。
・1758年12月、
裁判の判決
で死罪となりました。
・墓は、後に、金森家の浪人によって2つに割られ、
那比川
(
なびがわ
)
に投げ込まれましたが、明治になって見つかりました。