江戸時代末期から明治初年にかけて、開田村は木曽馬の主産地として、天下に名声をはせました。一時期は親馬1000頭〜1300頭に上ったこともありました。
明治に入り、日本が日清、日露などの戦争を繰り返し、軍国主義化が進むと、政府と軍は、外来種馬を木曽に奨励し、木曽馬の大型化をはかります。そして、昭和12年には、木曽の種牡馬の全部を、アングロノルマン系、ペロシュロン系の外国系に変え、大型の木曽馬を作り、木曽を軍用駄馬の産地にする計画がもくろまれます。昭和18年、宝玉号を最後に、木曽に残された木曽馬系種牡馬はすべて去勢されてしまいました。
太平洋戦争後、関係者は純血木曽牡馬を探し求めました。その結果、更科市八幡の神社に、去勢されていない神馬として奉納されている情報がもたされ、この「神明号」と木曽福島町で飼育されていた純血雌馬の「鹿山号」との間に「第三春山号」が誕生した。この「第三春山号」の子孫が純系木曽馬として、愛馬家によって保護育成されています。 |