美濃国の鵜飼のもっとも古い史料は、大宝(たいほう)2年(702)の各務郡(かがみごおり)中里(なかざと)の戸籍(こせき)「鵜養部都売(うかいべめづらめ)」の記事で、このことから美濃の国の鵜飼いは1300年の歴史があることがわかります。

 戦国時代、斉藤氏(さいとうし)を追放して美濃の国に入った織田信長(おだのぶなが)は、鵜匠を保護し、永禄(えいろく)11年(1568)6月、武田信玄(たけだしんげん)の使者に鵜飼を見せて接待しました。このとき、信長は鮎を自ら選んで、みやげとして手渡したといわれています。

 元和(げんな)元年(1615)大坂の陣の帰途(きと)、岐阜へ逗留(とうりゅう)した徳川家康(とくがわいえやす)と秀忠(ひでただ)親子が鵜飼を見物しました。このとき家康はことのほかご機嫌(きげん)うるわしく鮎鮨(あゆずし)を食べたということで、幕府(ばくふ)とのつながりが強くなり、幕府直轄(ちょっかつ)となりました。

 元和5年(1619)長良川は尾張藩(おわりはん)支配となり、岐阜町もその所領(しょりょう)となりました。鵜匠はしばらく幕府直属(ちょくぞく)で鮎を将軍家に献上(けんじょう)していましたが、寛文(かんぶん)5年(1665)、正式に尾張藩に所属しました。鵜匠は尾張藩に管理され、保護を受けるかわりに鮎を納入するという役目を仰(おお)せつかりました。

 鵜匠は尾張藩からさまざまな特権をあたえられました。鵜匠の生活まで配慮した保護政策がとられたのは、鵜飼でとれた鮎が名産品として高名であり、藩主(はんしゅ)への鮎鮨、焼干鮎などを供膳するほか、将軍家への献上、諸大名、公家への贈答品にも使われたという背景がありました。

 貞享(じょうきょう)5年(1688)6月、松尾芭蕉(まつおばしょう)は岐阜を訪れ、鵜飼を見物しました。そのとき、「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」という俳句をよんだのは有名な話です。

 明治時代になると鵜匠の保護政策がなくなり、鵜匠をやめる人がつづきました。しかし、明治23年(1890)、鵜匠は宮内省の所属となり、維新(いしん)後20年を経てようやく安定した地位を得ることができました。明治31年(1898)には、本格的な観光鵜飼が始まり、昭和2年(1927)には岐阜市直営となりました。長良川鵜飼はこのようにして発展をとげ、大正11年(1922)に英国皇太子が観覧されたのをはじめ内外の重要な高官が数多く観覧するようになりました。

 太平洋戦争から5年間観光鵜飼は中止されましたが、昭和22年(1947)に復活しました。復活当時は3万人足らずの乗船人でしたが年々増加し、昭和30年(1955)には10万人を突破し、39年(1964)には25万人をこえました。名優チャールズ・チャップリンが鵜飼を見物し、感嘆の声をあげたのは昭和36年(1961)のことです。

 昭和40年(1965)は岐阜国体の年にあたり、遊覧船も130艘(そう)前後に増えました。昭和48年(1973)、NHKテレビ「国盗り物語」のブームがあり、33万7000人と飛躍的な伸びをみせました。平成3年(1991)には、アメリカ合衆国シンシナティ市で鵜飼公演が行われ、海外にも岐阜の伝統文化が紹介されました。平成9年(1997)には天覧鵜飼が行われ、天皇皇后両陛下が鵜飼をご覧になりました。

 長良川鵜飼は岐阜を代表する伝統文化として、さらなる発展をめざしています。