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■太田宿(1843年)■ |
尾張藩領 |
人口 |
505人 |
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家数 |
118軒 |
本陣 |
1軒 |
脇本陣 |
1軒 |
旅籠 |
20軒 |
歌川広重「木曽海道六拾九次之内 太田」 中山道広重美術館(田中コレクション)所蔵 |
鵜沼宿までの距離 約7.9km |
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伏見宿と太田宿の間の木曽川の渡し(太田橋の下流)は、「木曽で桟橋、太田で渡し、碓氷峠がなくばよい」と馬子唄で唄われたように、中山道の難所の1つであった。
明治15(1882)年4月4日に、太田宿旧脇本陣林家(昭和46年国重要文化財指定)に宿泊した板垣退助は、翌朝岐阜に赴き、その夜の演説会の時に暴漢に襲われた。この地はまた、坪内逍遙生誕地である。太田小学校(尾張藩代官所跡)に顕彰碑がある。 |
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坪内逍遥は西洋文学理論を基礎とし、文学の独立と写実主義を主張した文学論を表しました。それは何でしょうか。 |
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