今須宿 関ヶ原宿 垂井宿 赤坂宿 美江寺宿 河渡宿 加納宿 鵜沼宿 太田宿 伏見宿 御嶽宿 細久手宿 大湫宿 大井宿 中津川宿 落合宿
 徳川家康は江戸幕府を開くと、江戸・日本橋を起点とした五街道をはじめ、各地の幹線道路の整備に努めました。
五街道(東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中)は、本来、幕府の公用の人や荷を運ぶために整備されました。
約2里(約8km)ごとに宿(宿駅・宿場)を設け、宿を構成している家から運搬・輸送のための人足や馬を提供する仕組みでした(=宿駅伝馬制)。中山道に宿駅伝馬制が設けられたのは、慶長7(1602)年のことです。江戸時代の旅は宿継ぎが原則で、宿に常備された人や馬を使って、次の宿まで移動しました。
 中山道は50人・50匹(次宿まで往復すれば馬1匹で2匹分と計算されるので、実質は25人・25匹)が宿人馬の規定でしたが、大通行で人馬が不足した場合には、宿近くの村から人や馬を補う仕組みがとられました。
 中山道には、板橋宿から守山宿まで67の宿が設置されました。東海道の草津宿と大津宿の2つの宿を加え、69宿と数えることもあります。このうち美濃国には16の宿がありました。落合宿から今須宿間の距離は約30里21町(約124km)でした。
 宿の最大の任務は旅人の宿泊と荷物運送でした。そのため宿には大名の宿泊施設として本陣が置かれ、他に脇本陣や旅籠屋があり、藩士や庶民の宿泊施設となりました。また、人足や馬を手配し、運用するのが問屋の仕事で、人馬引継会所として問屋場がありました。
本 陣 ・・・ 大名・公家・幕府役人などの宿泊・休憩施設。旅籠屋と違い、門・玄関・などを作ることが許されました。
脇本陣 ・・・ 大名などの宿泊を本陣だけでまかなえないときに、これを補う宿泊所。
旅籠屋 ・・・ 宿駅の一般庶民用の宿舎。
問屋場 ・・・ 各宿にある公営の人馬を継ぎかえる施設。
一里塚 ・・・ 1里(約4km)ごとに街道に置かれた路程標識。
助 郷 ・・・ 運搬や輸送のために宿駅に用意された人馬が不足した時、それを補う人馬を徴発された村々。

伝馬掟朱印状
(岐阜県重要指定文化財 御嵩町個人蔵)
 天保14(1843)年頃、道中奉行が管轄下の中山道の宿場について、その戸口(宿の戸数)や宿高(宿の石高)などを詳細に調査した記録。次ページ以降に載せた各宿場のデータはこの資料によるものです。